すっかり秋になった。もう夏が懐かしい。
このところ、報告以外の日記を書いていない。15年ぐらい毎日ブログを更新していたのに、習慣とは簡単になくなるものなんだなぁ。古いブログ 子育て記録でもあるが、マイナスなことは書かれていないから安心して読める。未熟なままの私がそのまま記録されているが、負のあれこれをプラスに変えてこれたのもブログ効果だったかもしれない。
最近は動画日記に移行していて、言葉を紡ぐことがやや減っているかな。
未来からの贈り物
22年前に臨月だったこの季節を迎えると、思い浮かぶのは、本当に満ち足りて虫の音に浸っていた感覚である。
私はなぜかなんの不安もなく、うつ伏せになれない身体で、何かの漫画を読んでいた。いざ助産院に行く時にまでその漫画一式持っていった(呆!)くらいその物語に没頭していたのに、なんの漫画だったかもうまるで覚えていない!
出産という体験により、それまでの記憶や感覚が刷新されてゼロからのスタートが始まったようだった。(出産育児だけが気づきではないと思いますので、これは私にとっての話です。)
初めての子育ての日々で感じていたことは、ああ、子どもは未来からの贈り物なんだな、ということだった。過去を美化しているわけではなく、日々の瞬間瞬間にそう感じていた。”私の子”ではなく預かり物。来てくれてありがとう。
実際、屋外自主保育サークルに参加して、仲間の子どもたちと共に過ごすようになると、その感覚は強くなった。小さな人たちの小さな社会を見守っていると、目の前の草花や虫といった発見から楽しい遊びが生まれ、共感から輪が広がり、そこには思いやりと助け合いも自然に生まれていた。これが、人に備わっているものなんだ。このまま大人になったらいいだけだ。大人が教えるようなことは何もなくて、あえていうならば(蝶々に夢中になって道に飛び出すと車に轢かれちゃうかもしれないよ)ということぐらいだった。想像力を使う遊びを見守り少し助けていく役割は、本当に楽しいものだった。
過去と未来への想像力
この小さな社会を見守りながら暮らすことで、私は未来への想像力を得たように思う。同時に、過去の日本の暮らし方の探求が始まった。人は、人だけでは存在できず、自然からの恩恵で暮らしている。この風土とともに育まれてきたことはなんだろう?衣食住、どれもが自然の恵みとともにあるというのが、豊かさかもしれない。今は消費社会だけれども、いずれまた、この豊かさに戻っていくのではないだろうか?
生きづらさとともに2005年ぐらいにぼんやりと思っていたことだけれど、2021の今、確実に世界もそうなり始めている。
ぼんやり思う、ということには実は大きな力があるかもしれない。言葉になる前の集合意識。すでにネット空間で可視化されているが、311震災前にはそこまで普及していなかった。同じことを(違う意見だとしても)考えている人がいる、というのは、勇気が湧くことでもある。ぼんやりとした何かが確信に変わるために、さまざまな出会いが必要なんだ。
たくさんのぼんやりした何かが未来をつくっているとも言える。最近、娘の大学の課題などで一緒に古いアニメを見ることが多いのだが、未来の認識というのが、そう外れてはいなくて興味深い。
表現について
最近は表現についてじっくり考えて試している。
私がタップダンスという方法で、他者と共有できることは一体なんなのか?
踊る楽しさ、違いこそが宝、といった場をつくることについては、他者との共有ポイントについて言語化されてきたけれども、自分の表現としてはどうなのかな?ということである。
こういうことは、やはりとてもぼんやりと感覚的に行ってきたものだった。体質的に行なっていることなど、自分では気付けないし、目に見えない部分をよく見るということを、自分に対してはしにくかったり。やはり他者との出会いによって気付かされ、確信を持てること。
改めてそこを観察してみると、けっこう表層的に踊ってきた部分も多いのかぁ、と思った。技術を高めることはもちろん必要だし、仕事に応じて表現していくことももちろん必要。
けれど改めて、私がぼんやりと、しかし本質的にやりたいと思ってきたことはどこか。
ちょっとじっくり、観察しながら過ごしている。